念願かなって…

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たま鑑
もうすぐ新学期。
新たなスタートに向けて、リフレッシュ完了です。

校長の完全オフの休日は4月1~3日だけ。
あとは日曜だろうと夏休みだろうと、いつでも出動できる体制を整えておくというのが、前校長・西先生からの引き継ぎでした。
校長に成り立ての2年はそれどころでなく、あっという間で3日間過ぎ、
震災の年には4月1日に母が亡くなり、この3日間で葬儀。
昨年は一周忌の法要があり身動きとれず。
やっと今年は本当に休暇らしい休暇がとれました。
この期間に絶対したかったことは、東北の被災地に実際に行ってみること。
ボランティアに参加した他の先生方や卒業生から話を聞くにつけ、
とにかく自分の目で見てこなくては、とずっと思っていたのでした。
一泊しかできないので、ボランティアはできないのですが、とにかく
行きたいという気持ちだけが先行して出かけました。
仙台からレンタカーで多賀城、塩竃を経て松島へ向かいました。

松島海岸は観光地としてほぼ復活しており、観光客も戻ってきているようす。
オフシーズンの平日とはいえ、海岸沿いのおみやげ物やさんも開業していて、観光が復活した様子にほっとしました。
しかし、売店の窓に被災当時の写真が貼ってあり、
瑞巌寺の参道が水没した様子が生々しく写し出されていました。



松島で一泊して翌日は東松島→石巻→女川→雄勝→南三陸へ。
海岸沿いの国道を北上するにつれ、様子がどんどん変わってきました。
石巻は旧北上川が蛇行して、東側と西側に分かれていますが、
駅のある西側の市街はほほ復旧なっているように見えました。
石巻港にはまだ瓦礫の山がいくつもありましたが、港湾部の施設などは稼働していました。
石巻日赤病院を左手に見ながら旧北上川を渡り、市の東側に行くと、高台の学校の校庭などには仮設住宅が。
TVで見るイメージより小さく、しかも雨が降っていたので、お洗濯などはどうするのだろう…と心配になりました。
東側は被害が大きかったところ。
瓦礫撤去は進んでいるようでしたが、何もないことがかえって不安をかき立てます。

さらに女川、雄勝と進んでいくと、外壁だけになったコンクリートの廃屋や瓦礫が木に引っかかったままのところが多くなり、
国道もあちこち崩壊していて工事中。
道路脇に真っ黒に焼けこげた立木が残っており、あの夜、生徒と一緒に教室のTVで見た火の川が流れているような映像を思い出し、
ゾッとしました。
南三陸町に行く国道の最も大きな橋は落ちたままなので、
迂回迂回でようやく到着。
海沿いのようやく見つけたプレハブの食堂で遅めの昼食をとり、
店のご主人ご夫婦にお話を聞くことができました。

津波により石巻側も気仙沼側も津波で橋が落ちたので、孤立状態が続いたこと。
自衛隊が海からとヘリコプターで物資を運んでくれたこと。
堤防沿いに止めてあった車の中で、助けを求めるように亡くなっていた人がたくさんいたこと。
毎月行ってた水門の開け閉めの訓練は、何の役にもたたなかったこと。
「今、堤防を8m以上にするために工事をしていますが、すると海が全然見えなくなる。あの時、自分は海の方に向かっていたが、海の様子が変わるのを見て、引き返して助かった。堤防が高くなると、海の変化が見えなくなる。かえって不安です。」とご主人。
家々が流されて何もなくなった海岸に、立派な水門だけが残り、
その操作小屋でしょうか、脇に傾いたまま無惨な姿をさらしていました。

とにかく工事関係者以外の人が歩いていません。
(雨だったから、余計でしょうが…)
「このあたりにあった小学校は、高台にある学校に間借りしていますが、これから人口が増えることはないから、立て直すことはしないと行政は言ってます。人が減る一方なんですよね。」と奥さん。

復旧のために道路工事は確かに進んでいます。
堤防も高くなります。
しかし、人々は戻ってくるのでしょうか。
船を失った漁師さんは宮城県の漁協の管理下に置かれ、漁に出ることもままならないとか。
復旧のためには人が戻ってこないと。
人が戻るためには、仕事が復活しないと。
インフラ整備だけでは復旧はできない、と改めて感じました。

複雑な心境のまま、仙台に戻り東京へ。
ニュースで華々しい歌舞伎座の柿葺落としの様子が流れていました。
これも日本、さっきまでいた南三陸も日本。
自分の立ち位置をきちんと決めて、目線をそらさずにいこうと思いました。

さて、4月6日から新学期。平成25年度の始まりです。
皆様、どうぞよろしくお願い申し上げます。