「異文化理解」の陥穽

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shin-no-michi
 突然ですが、国語の問題です。表題の「陥穽」、みなさんは読めますか? 「陥」は「欠陥(けっかん)」という言葉から何とかなりそうですが、「穽」は厳しいでしょうね。中学で習った漢字の成り立ちの、義符と声符を思い出して下さい。読みを担当する部首、声符が何かをイメージすると、「井」だろうなということになり、その「井」の音読みは? と考えれば「市井(しせい)」という言葉にたどり着きます。つまり、答は「かんせい」です。意味は「策略」「わな」「おとしあな」になります。ちなみに「欠陥」「陥穽」「市井」すべて大学受験で問われる漢字ですから、皆さん(高3は特に)しっかりボキャブラリーにして下さいね。
 いきなり脱線してしまいましたが、「『異文化理解』の陥穽」とは一体なんのことでしょうか。実は、先日読んだあるコラムに触発されて考えたことです。

 フランスで起きた「シャルリー・エブド」誌襲撃事件は、皆さんもニュースでよく知っていると思います。パリの小さな新聞社をイスラーム過激派のシンパと思われる男たちが襲撃、十数名の死者を出してしまったテロ事件です。「シャルリー・エブド」誌が、イスラーム教、特に開祖ムハンマドを風刺する漫画(絵)を掲載したことが犯行の動機とされており、「表現の自由」を脅かす蛮行として国際的な非難の声が挙がりました。フランス国内でも350万人を超えるデモが行われ、欧州各国の首脳も参加したのは記憶に新しいところです。「わたしはシャルリー」は、今や反テロ、表現の自由擁護のスローガンになっていると言ってもいいでしょう。
 そんな中、1月14日付けの「シャルリー・エブド」最新号に再びムハンマドをモチーフにした漫画が載せられることになり、そのことが世界中で報道されています。今回私が大いに考えさせられたのは、日本のメディアがその報道をした際の翻訳に関するコラム。仏在住の翻訳家・作家である関口涼子氏が書いたものです。原文を読みたい人は下記のリンクを参照して下さい。

【「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題 関口涼子 / 翻訳家、作家】
http://synodos.jp/international/12340

 異文化理解、というより他者理解というものがいかにデリケートで、かつ慎重さを要求されるものかということを考えさせられました。
 事実として確認できる 「シャルリー・エブド」最新号の内容は以下の引用の通りです。

この表表紙には、ふたつの文章が記されている。まず、ムハンマドと解釈されるような男が「Je suis Charlie」と書かれた紙を掲げ、涙を流している。そしてその上には「Tout est pardonne」と書かれている。(上記コラムより)

「Je suis Charlie」の訳が「わたしはシャルリー」にしかならないだろうというのはフランス語の門外漢である私にも分かります。しかし、次の「Tout est pardonne」を「すべては許される(読売新聞)」と訳し、「ムハンマドの風刺も含め表現の自由が許されている」とするのは重大な誤訳だと関口氏は指摘しています。
 以下は関口氏の受け売りですが、「pardonne」は「宗教の罪の『赦(ゆる)し』に由来する」「重い言葉」であり、「過去に為された過ちを赦すことを意味する」そうです。そして関口氏は更にこのように述べています。

これは、ただの喧嘩の後の仲直りの言葉ではない。長い間の不和があり、それは実際には忘れられることも、許されることも出来ないかもしれない。割れた壺は戻らないかもしれない。それでも、この件については、終わったこととしようではないか、そうして、お互いに辛いけれども、新しい関係に移ろうという、「和解」「水に流す」というきれいごとの表現では表しきれない、深いニュアンスがこの言葉には含まれている。(上記コラムより)

「赦す」は誰の言葉なのか。それはムハンマドでも「シャルリー・エブド」でもどちらでもあり得ると関口氏は言います。今回の事件とそれにまつわるさまざまな出来事を「赦す」ことは、新聞社(欧米側?)、イスラーム信者どちらの側にとっても容易なことではありませんが、「お互いに辛いけれども、新しい関係に移ろう」とするなら必要なこと。そんなメッセージを読み取ることができるのかもしれません。
 しかし、「pardonne」を「許す」と解してしまうことで、本来あったはずの深いニュアンスは捨象され、「表現の自由は全てに優先される」という意味の政治的主張「だけ」を読み取ってしまうことになります。その翻訳(誤訳)が新たな誤解や憎悪を生み出すことがあるかもしれません。

 伝えたい何かを言語化し、それをさまざまな形で発信すること。グローバル化が進みSNSの発達した現代社会では、誰にもその機会が数多くあります。英語を代表とする外国語を読み、解釈することも今後は増えていくでしょう。そういう時代だからこそ、私たちはコミュニケーション(特に文字ベースのそれ)にもっと慎重であるべきではないでしょうか。他人の言葉を鵜呑みにせず、その意味を丁寧に読み取ることが求められています。同時に、自らの言葉が他者にどのように受け止められるかを想像する力、意図を正確に伝えるために言葉を吟味する力も。異文化をバックボーンとする人とのコミュニケーションはもちろん、同じ文化圏の人との間でも必要なことだと思います。「分かっているつもり」のコミュニケーション不全から、思わぬ「陥穽」に陥ることもあるのです。

 進路と直接関係ない話題でしたが、考えさせられることが多かったので、長々と書いてしまいました。興味のある方は、ぜひ元のコラムを読んでみて下さい。